昭和41年02月15日 夜の御理解



 今御神前に、四台目の八足の一番正面の真ん中に、薫長と言うお酒のお供えがしてあるでしょう。一番正面の真ん中に。薫長薫りの長と書いてあるね。梅の花のマークの中に、薫長と言う。私は今日はあの、あのことを頂いた。薫長と言うこと。どんなことだと思いますか。恐らくこの香りの、もう一番素晴らしい、花の香りの一番素晴らしいというのは、梅の花たと言う意味じゃないかと思いますね。梅の花のマークの中に、薫長と言う、お酒の銘柄なんです。馥郁とした香りを漂わせる。ね。
 極寒の中にあって、じっと固いつぼみをこう守りながら、それでもその馥郁とした香りを放ちながら、寒い中に咲いていくという花。ね、そういう薫長にも似たような心の状態。何か知らんけれども、あの人のそばに寄ったら、信心の香りがするような、本当にあぁいう家庭の中に、ね。もうとにかく馥郁として、信心生活の様が伺われると言った様な、おかげを頂きたいなとこう思うですね。
 信心くさいのじゃいかん。信心の香りがある。もうとにかくまぁ言わんでも語らんでも、何とはなしにそういう雰囲気が漂うような、私はおかげを頂きたいと思う。皆さん、そういう信心を一つ、目指しなさらないけんと思うですね。信心とは、私思うんです。とにかく神様だけが、ご承知の世界に生き抜くことなんです。信心とはそういうものであることを、先ず一つ知らなきゃいけません。
 信心とはね、神様だけがご承知の世界なのだ。ね。例えばよし人が笑うてもです。人から笑われても、だから神様から笑われんごとせにゃという信心です。ね。人が笑うてもです。神様から笑われちゃならん。人間心の強い人は、もう人から笑われまい、人から笑われまいとばっかりする。そして神様からはもうがっかり、神様をさせるように。本当に神様が笑いはしなさるまいけども、神様が悲しみなさるように、影の方を疎かにする人がある。人間の世界と神様の世界は、そんなに違うのである。ね。
 神様だけからは、神様から笑われちゃならん。ね。まぁ手っ取り早い話が、こういう様な、私が修行中の時分には、ございましたですね。もういちいち神様がお伺いをさせてもらうと、いちいちそれに答えて下さる。今日はどこどこにお話に行けと仰るから、出させて頂く。今日は傘を持っていけよと仰る。ね。高下駄を履いて行けと仰る。もう天気の良いのに高下駄もなかろう、傘を持つことも不自然なぐらいにある。可笑しいぐらいにあるけれども神様はそう仰って下さるから、高下駄履いていく。傘を持って行く。
 はぁ大坪さんなどげんこっじゃい。このお天気のよかつに傘どん持って行きよる、たかぼっくりどん履いて行きよると、本当に笑うた事だとこう思います。けれども神様こげんお天気のよかつにああた、傘ばもって行きよるなら人が笑いますよ。私は今日は傘は持って行きません、と言う様な事は私は言わなかった。もうとにかく神様から笑われちゃならんと言う信心ですから。もうどんなにそれが持ち荷になってもかんまんのです。神様下駄よりか高下駄をと、ね。
 持ち荷になろうけども、傘を仰るから持って行くだけのこと。ね。ところが帰りがけごろになってくると雨が降り出し、ね。それと反対のこともあった。もう今にも降り出しそうにある。どうぞ傘をお持ちなさいという人があっても、神様は傘は要らん。もうああた、もう降るごたるですばい。いいえ要りませんち。人はそれを見てから、ま変人と言うかも知れません。笑うかも知れません。
 けれど、これは、私が吉木にお話に行った時でした。もう今にも降り出しそうですもん。しかも夕立だから間違いなし、降るごとしとるとですもん。それでも神様は、要らんと仰るから、吉木から歩いてきた。ところがその勿体島の、その堤防のにきまで帰ってきた時に、もう直ぐそこまで降ってきたです。もう真っ暗い雲ですね。それでこら私が頂き損のうたつじゃろか、修行させござるじゃろかと思うてから、もうとにかくですね、私の四五間後まで、ずうっと降ってくるです。
 もうここへ着いた途端にだぁっという、夕立でした。ね。それはまぁそういう例を言うなら、私の中には、まぁだ極端にですね。本当に大坪さんばっかりは、もう信心のぼせてしまってござるとじゃろかと言うてその、笑われた時代があったけれどもです。私はね、人からどげん笑われても、神様から笑われちゃならんと言うのでした。そのためには、両親なんかが、もう本当に申しよりました。もう本当に商売をすりゃ一人前。私は本当に、一人前以上の商売が出来たんです。
 もうほんなごつは、商売の神様になろうと思いよったけれどね。とてもこういうことになろうとは、夢にも思っていなかった時代です。もうそれでも、こと神様ごとと言ったら、一生懸命だもんですから。両親が申しよりました。あんたも本当に商売をさしてもらや、一人前のことが出来るのだから、商売させて頂いて、ね。そのかたそばにお参りし立っちゃ良かろうもん。お供えしなさんなとは言わんけんでという風に、もう両親が申しよる。もうあんまり家が苦しいもんですから。ね。
 けれどももうその当時は、神様から色々とこのお知らせを頂いとりますもんですから、ね。もう例え両親の、私の一番大事な両親が言うことでもです。ね。私はそれを聞きませんでした。もう両親からは悪く思われても、言うならば笑われても、ね。神様から笑われちゃならんと言う気持ちなんです。ね。いわゆる神様だけが、ご承知の世界に生き抜くということ。これは皆さんの、日常生活の中にもこれは沢山あるのですよ。だから人間心の強い人は、おかげになりません。言い訳ばっかりする。
 人間心ばかりを使う。ね。本当に今言い訳すりゃ、分かってもらうこともあるのだけれど、ね。とにかく自分の心が、神様の前に恥じない心で、進ませて頂きよるのだから。神様だけがご承知の世界だから、ね。神様が教えて下さる様に。泥棒だと言われても、腹を立てなと。乞食だと言われても、ね。腹を立てるな。貰うて歩かなければ乞食じゃ無かろうがと。人のものを取らなければ、泥棒じゃなかろうが。ね。
 一人ひそかに信心せよと仰る。ね。神様がちゃんと顔を立てて下さる時期が、必ず来ることを確信しておるから、その時は笑われても、悪口を言われてもです、ね。ただ心の中に、神様の仰るとおりにさせて頂いておると、その喜びがもうそんなことなんか、問題じゃないのですね。本当に信心とはですね。神様だけがご承知の世界に生き抜かせて頂くことなんです。そう言う様にして、人間心を外して、本当に神心に徹していかせて頂くとです。ね。一切が辛抱なのである。ね。
 その辛抱させて頂いておる中にです。私は馥郁とした香りが出てくるのじゃなかろうかと思う。ね。もう言うならばです。もう自分の心のなかに、もう本当にどうかもう、不平不足ども言わにゃおられん。もう本当に目に余るような事がある。こらいっちょ言うておかにゃという事がある。ね。けれどもです、ね。けれどもそこんところを、いわゆる金光様、金光様と言うてですね。この胸を撫で下ろすように、こうして撫でよりますとですたいね。不思議に心が治まってくる。ね。
 その辛抱こそが身に徳を受ける修行なんだ。「雨が降るから、風が吹くから、えらい大儀とは思うてはならん」その辛抱こそ身に徳を受ける修行と仰る。ね。ですからそれは、決して現実の上で言うところの、雨やら風だけのことではありません。神参りをするにとこう仰る。信心をさせて頂く者は、いわばその世の中の雨風です。世の中の荒波と、こう申しますですね。世の中に私共の行く手に、はぁこれが本当に雨の降りよる時じゃろうかと言う、術ない時があります。ね。
 本当にこれがもう、烈風に吹きさらされとる時じゃないだろうかという様な、辛い時もございます。けれどもその辛抱こそ身に徳を受けるし。そこを神にすがって一心に金光様、金光様を唱えて、おかげを頂かせて頂くのです。ね。例えばどうでしょうね、あのなら薫長なら薫長というお酒が出来るまでにはです。ずいぶん私はその辛抱をしてきておるから、あの馥郁とした、銘酒の香りと言うのが出てくるのです。ね。あれが元を取って仕込まれます。そして段々あれがアルコール分が出てくる頃になりますとです。
 それこそぶつぶつぶつぶつ、言うて泡が出ます。ね。そういう時にお互いがですよ、例えば蓋を取るようなことをするから、アルコールが逃げてしまうのです、ね。あれで泡が立ってたら、こうやって一遍突きますよね。そしてまた蓋をぴちっとします。いわゆるぶつぶつ言わにゃおられんような事がある時に、今こそお酒がこの中に出来よる時だと思うてですたいね。金光様金光様で、これを下に押し下げにゃいかん。ね。そすと泡がじっと治まっていく。そこを上から蓋を、ぴったりさせて頂いておりますとです。
 それこそ馥郁とした香りが心の中に香ってくる。神様が一番お好きなのはなんと言うてもみきだと仰る。みきとはお酒の事じゃない。有難き恐れ多き勿体なきのみきじゃと仰る。もう神様はどげなお供えよりも、このみきを一番喜んで下さる。有難いことじゃ勿体ない事じゃ恐れ多い事じゃと。有難き勿体なき恐れ多きのこのみきを奉ればおかげと仰る。そういう神酒が出来かかりよるのをです。私共が蓋を開けるから、ちゃんとその酸いかごつなってしもうたり、気の抜けたごたる酒が出来てしまうんですよ。ね。
 自分のその上に、金光様、金光様、金光様と言うてですね。これをもう撫でさするように、ね。今日も先ほど、永瀬さんがお届けしておられますように、もうそれこそもう、本当に向こうに、掴みかかって行きたいごたるその、子供の喧嘩に親が出たというごたることです。そげな事があってきた。てんでもう気違いのごとなって、向こうのお母さんがやってきなさった。それをじぃっと、金光様、金光様でですたい、ね。
 御神前に一生懸命に、御祈念しござったげなら、二十分ばっかりしたらですね。お菓子箱ば持ってきて、断り来なさった。そん時にやりやりやってたら、どうだろう。ね。本当にもう今までのことは、私が言うたことは、ほんに本当にもうつまらんこつばっかり言うちから、こらえちくれんの、水に流してくれんのち言うてその、ま、勿論、それは受け取りはしなさらなかったけれども、ね。ここへお菓子箱持って断りにこられたと。その御神前に出れということなんです。
 そこにいわゆる有難き勿体なき、いわゆるその芳情というですかね。絵にも言われんような、香りがこれに出来て行きよる時であり、アルコール分がどんどん、ここの中で出来て行きよる時である。いわば一番醗酵しよるとこの大事なところを、お互いがパーッと蓋を開けるもんだから、また結局何時までたったっちゃ、有難いおかげが頂かれん。有難い心が頂かれんということになる、と私は思うのですよ。ね。
 ためにはどうでもです、ね。本当に私の苦しいという事は、神様がご承知だと。ね。神様だけは、見ておって下さるのだから。神様がご承知の世界に、生き抜かせて頂く稽古をさせて頂いておるのであるから、ね。そこんところを、私は辛抱していくのが、さぁ雨だから風だから、えらい大儀と思うてはならんと言うのが、そのことだとこう思う。ね。そこを生神金光大神様、天地金乃神様と、どうぞ私の心の中に、和らぎ喜ぶ心を頂かせて下さい。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと。
 一心にどうぞあぁなりますように、こうなりますようにと言うて願うよりもです。私の心の上にです、ね。和賀心どうぞ、生神金光大神天地金乃神一心に願わせて頂く事はです。私の心の中に和らぎ喜ぶ心和賀心。和らぎ喜ぶ心を頂かせて下さいと言うて、願うことなんです。人間だから腹の立つこともありましょう。悲しい思いをすることもありましょう。けれどもその悲しい心、腹の立つ心がです。どうぞ治まって有難い心にならせて下さいと言うて、祈り願わせて頂くところにです。
 確かに有難いものが、これにいただけるから不思議なのです。ね。信心とはそれなんです。そこの辛抱が出来なければ、私は梅の花のような徳は受けられん。梅の花のような、馥郁とした薫長、薫りの長と言われる様な香りは、出てこないとこう思う。ね。それが私はやがて梅の実ともならせて貰う。ね。梅干になる。何時まで置いても悪くならん。あの世にも持っていけ、この世にも残しておける、いわゆるお徳になるというのは、そういう信心からだと私は思う。ね。
 お互いが本当に一つね。本気でお徳を受けようという信心にならなきゃいかんです。ためにはね。本当に私共は日々神様から見通し、聞き通しの世界に、私共は生活させて頂いておるのだと。この位の事は神様言うたっちゃ良かろう。それではおかげにならんです。神様だけは聞いてござる。神様は見てござる。ね。だから今私が赤面弁慶になって、それを言い訳しなくっても、ね。神様が顔を洗うて下さると仰るのだから。神様が嘘を仰るはずはないのだからと、そこを確信させて貰うてから、日々の生活の中にです。
 はぁおかげを頂いて、言わんで良かったと、いう事になるのです。今日の永瀬さんなんかは、そこを体験しておられるとこう思うのですよ。ね。さぁ喧嘩でも、本当にやりやり、やっとってごらんなさい。今度は親父と親父が出てこなんごとなりますよ。ね。そしてもう、角内付き合いをしようごとなかごとなってくるです。ね。相手に、信心のない人にお詫びをさせれれると言うことが素晴らしいでしょう。ね。どうぞ一つ皆さん、私が今晩頂きます薫長。有難き勿体なき恐れ多きのお神酒の、いわば薫りの長。
 そういう信心の香りが馥郁として、ね。私の周囲に私の家族の中に、私の行くところ職場に、何とはなしにあれは違う。何とはなしにあの人は違うと思いよったら、なるほど椛目に参りござるようなもんじゃけん。金光様の信心しござるげのなもんじゃけん、違うと思いよったという様なところにです。人徳がついてくるのです。勿論これに神徳が伴うてこない筈がありません。どうぞ一つおかげいただかにゃいかんですね。
   どうぞ。